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海外で働く

サイト閉鎖のお知らせ

諸般の事情により、2021年5月末日をもちまして「チャンスクリエーター」を閉鎖させていただきます。
これまでのご愛顧に対しまして、スタッフ一同、深く感謝するとともに心より御礼申しあげます。

長らくのご愛顧誠にありがとうございました。

国境なき看護師の挑戦―International Clinic 看護師 山本ルミさん

国境なき看護師の挑戦―International Clinic 看護師 山本ルミさん
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賑やかな六本木の繁華街から少し離れ、各国の大使館が集まる場所にそのクリニックはある。高い塀と木々に囲まれ、「International Clinic」の看板がなければ、およそ病院とは気づかないだろう。洋館の佇まいは「グランマの家みたいだ」と訪れる患者にも好評だと看護師の山本ルミさんが楽しそうに話す。「ここは外国人の患者さんしか来ないんです」と楽しそうに話してくれる山本さんは、ここに勤めて早21年。その間、一緒に患者を診てきたDr.アクセノフはもう90歳だと言う。

「ここに来たのは運命だった」という山本さんが、看護師として歩んできた道、そしてアクセノフ氏との出会いで得た経験を語ってもらった。

 

International Clinicのエントランス。病院というよりも洋館の趣だ。

International Clinicのエントランス。病院というよりも洋館の趣だ。

初めての外国で感じた衝撃。

―山本さんの看護師としてのキャリアを教えてください。

看護の道へ進もうと考えたのは、年の近い伯母が近くの老人ホームで看護師をしていて、お年寄りのお世話をするのを間近で見ていた経験があったからです。人と接することも好きだったし、母の薦めもあったことが後押しとなりました。看護科のある地元大分の高校に進学し、卒業と同時に准看護師免許を取得しました。卒業してからは慈恵医科大学の専門学校に進学します。東京への憧れもありましたが、当時、学校案内のパンフレットか何かで慈恵の看護学校が日本で一番古いということを知って、「ここで一番を取ろう」と思ったことが理由です。私は子どもの頃から勉強もスポーツも一番になったことがなくて、どこかで自分はダメなんだと思っていた部分があったのです。

学校は夜間を選択しました。准看護師の免許を持っていたので、1・2年生の時は働きながら学び、3年目は貯金で過ごし卒業、国家試験にも合格し慈恵医科大学病院に就職しました。

実は学生の時に1か月間だけ、アメリカに留学したことがあります。初めての経験でしたので、玄関で靴を脱ぐことも庭にプールがあることも、小さなことにカルチャーショックを受けました。「世界には自分の知らないことがまだまだたくさんある」と、語学の重要性を知り少しずつ英語の勉強を続けました。

就職してからもその気持ちは薄れず、病院を辞めて外国に行こうと決意します。しかし、当時の婦長に退職の意向を伝えたとき、こう言われたのです。「これからの看護師は看護だけできればいいというのではない。あなたのように英語を話したり、手芸ができたり、食事に興味があるなら栄養士の勉強もしたり、幅広い勉強をして幅広い視野を持つことが必要。人間的にも色んな環境で揉まれた看護師に増えてほしいと思っている。だから、あなたを今回、慈恵で初めての留学のための休職者にするから。何年も行きたいだろうけど、とりあえず半年だけ行ってきなさい。」と。家賃も払わないのに寮に荷物は置きっぱなし、帰国後も留学前の給与からスタートさせてくれるという有難い申し出でした。事務の方も前例がなかったので、私をどう扱えばいのかわからず戸惑っていたようです。

そうして渡ったカナダでは、留学というよりも遊学になってしまいましたが、英語は満足にできないものの、ホストファミリーの優しさ、私を喜ばせようとしてくれる心遣いに触れ、「自分ができるナースという仕事で、外国人をヘルプできるといいな」という思いを持ち始めました。帰国後は2年間、慈恵医科大学病院に戻り働きましたが、このままここで看護師を続けるかどうか悩んでいたときに、ちょうど外国人向けのフリーペーパーに掲載されていたInternational Clinicを見つけます。このクリニックは何度も通りかかって気になっていたのですが、たまたま記事を見つけたことに直感を感じ、思い切って看護師を募集していないか電話してみたのです。

 

International Clinicの外観。山本さんは通りかかるたびに気になっていたと言う。

International Clinicの外観。山本さんは通りかかるたびに気になっていたと言う。

日本の病院とは異なる、アクセノフ院長の診療。

―その後、希望通りInternational Clinicで勤務するのですね。

ちょうど前の看護師が辞めるということで、「英語はできるの?」ということだけ聞かれました。面接でも院長が「慈恵の出身なんだね。かわいいから採用!」なんて感じで就職が決まってしまって。でも、どうしても働きたいと思っていたので、とても嬉しかったのを覚えています。給与のことも確認し忘れたくらいでした。しかし、いざ働き始めてみると、院長と患者の会話は英語で進んでいく。私は院長に「ルミちゃん、血圧測って」と言われるまで何も話さないで立っているだけなんです。さすがに「このままじゃダメだ」と気づき、簡単な挨拶や院長がよく使う言葉から必死に覚え始めました。たとえば、「How can I help you?」などですね。速くて何を言っているかわからない言葉もカタカナでメモをして昼休みに辞書で調べるといった具合です。「Take one tablet three times a day after each meals.」という言葉も、「ミール?ミールだからMだよね。after each meals で各食後か~!」なんて理解して何度も書いて発音して、の繰り返しでした。自宅でも外国映画の字幕の部分をティッシュの箱で隠しては巻き戻して見たりしていました。今でもプライベートレッスンは受けています。言葉の勉強はエンドレスですから!

このクリニックで驚いたことは言葉だけではありません。外国人ばかりの患者ですので質も日本の病院とは違いますし、何より診察室が明るいのです。日本だと医師と患者の話の9.9割が病気の話ですよね。でもアクセノフ院長の診療はほとんどが雑談です。「どこから来たの?」「お孫さんは元気?」「日本で観光するなら、●●がいいよ」。もちろん、こんな話から患者を知ろうとしているのですが、私たちも自然と患者の家族構成には詳しくなります。ただ、外国人は名前が長いので、名前だけはなかなか覚えられません。「子供が3人で、奥さんが金髪のフランス人、名前はなんだっけ?」という会話がよくされていました。

アクセノフ院長は「僕は、患者がそのドアから入ってくる時にしかめっ面でも、同じドアから出ていく時に笑顔であればそれいいんだ」とよく言っています。それが院長にとっての医療なのです。

 

診察室の壁はInternational Clinicを訪れた子供たちの写真で埋めつくされている。

診察室の壁はInternational Clinicを訪れた子供たちの写真で埋めつくされている。

エスコートナースという仕事。

―クリニックでの勤務の他にエスコートナースという仕事もされていますよね。あまり聞き慣れない言葉ですが、どのような仕事なのでしょうか?

日本で病気やケガをした外国人や、海外で病気やケガをした日本人に付き添い、無事に自宅まで送り届けるという仕事です。もう15年も続けています。きっかけになったのはクリニックに来ていた患者を韓国に送ったことです。アクセノフ院長は以前、日本の港町に外国の船員向けにクリニックを何カ所も開いていたことがあって、その名残で今でも船員さんたちがここを訪れるのです。何日も船に乗っているので皮膚病や風邪、また肉体労働ですのでケガもします。その時も、骨折をした患者さんが来ていました。すると院長が突然、「ルミちゃん、韓国行きたい?」と私に尋ねました。医療者が付き添っていなくては飛行機に乗せてくれないそうなのです。二つ返事で引き受けたものの、私も初めての経験です。機内でも何をしていいのかわからず、骨折なのに1時間おきに血圧を測ったりしていました。無事に韓国に到着しても、ハングル語がわからないので、病院に辿りつけるのか不安でした。でも、病院に着いてから家族から「本当にありがとう!」と言われて、こんなに感謝される仕事なんだ、もっとこういう仕事をしたいな、と思いました。その後、半年に1回ほど中国や東南アジアにクリニックの患者を送る仕事を受けて、今はフランスの会社に所属して海外の保険会社からの仕事を受けています。多くても月に1~2回、骨折や脳梗塞でも軽くて安定している患者であれば私一人で付き添いますし、寝たきりや心筋梗塞後の患者であれば現地の医師も一緒に付き添います。

 

後にも先にも、Dr.アクセノフほどの人はいない。

―山本さんのお話を伺っていると、アクセノフ院長との出会いにもたらされたものが大きいように感じます。

アクセノフ院長はとてもポジティブです。病気の人が来る病院という場所は暗いイメージが付きまといますが、院長の診察室はいつも明るい。診察室でもこんなに楽しく仕事ができるんだと気付かせてくれました。そして、院長と出会っていなかったら、今頃英語も話していないでしょうし、本も出していなかったでしょう。何より自分がこんなにやりたいことに向かって突き進むアグレッシブな人間だとは気付かなかったと思いますし、そうさせてくれたことにとても感謝しています。

一方、外来で20年以上も働いていますので、看護師として知らない知識や経験があることに不安を覚えることもあります。ここには白血病の患者や呼吸管理が必要な患者は来ません。時々、通訳で大学病院に行くことがあるのですが、自分が大学病院に勤めていた頃にはなかった点滴薬や機器があると焦りを感じることもあります。私が経験してきた看護は貴重な経験だけどニッチな分野。だから、機会があれば大学病院でまた働きたいと思っています。アクセノフ院長は今90歳でまだまだ医者を続けていこうと意欲満々、ですので負けず嫌いの私は95歳まで仕事を頑張りたいです。

 

患者の笑顔を見ること。それが私の看護。

―山本さんにとっての看護とは何でしょうか?

患者さんの体も心もハッピーにすることです。最終的に患者の笑顔を見られれば何よりも嬉しいのです。

このクリニックでの経験を経て、アクセノフ院長の意思を継いでいくために私には何ができるのだろう、と考えた時、それは「語学」だろうと思っています。私は医者ではないので、院長の医療を継ぐことはできない。でも、語学の幅を広げて外国の人を助けるということは私にもできるのではないかと思っています。院長が話すロシア語に加えて、フランス語ができればアフリカの人を、スペイン語ができれば南米の人を助けられます。そういう人たちを救いたいというのが、今の私の夢です。95歳までまだまだありますからね。

 

山本ルミさん。「95歳まで頑張りたい」と意欲をのぞかせる。

山本ルミさん。「95歳まで頑張りたい」と意欲を見せる。

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【プロフィール】

山本ルミ/International Clinic 看護師

1967年大分県生まれ。東京慈恵会大学付属病院を経て、93年より六本木の「インターナショナル・クリニック」に勤務。98年より、海外滞在中にケガや病気をした人を本国へ送り届ける「エスコート・ナース」としても働いている。

主な著書に、『空飛ぶナース』、『患者さまは外国人』。

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●記事の内容は取材当時の内容であり、現状は異なる可能性がございますので予めご了承ください。

COMMENTS & TRACKBACKS

  • Comments ( 4 )
  • Trackbacks ( 0 )
  1. By フランシス美貴

    呼び寄せられるように米軍基地の近くのまちで働き、米軍ワイフから、「あなたインターナショナルクリニックで働いたらいいのに〜」と何度か言われて、なんじゃそりゃ?と思っていました。
    記事を見て、外人しか行かないクリニックって説明されたこともわかりました。
    熱いハートのフィリピン人助産婦やアフリカにお産の指導に行くサモアの保健婦、アメリカ人の外科看護師・・・看護師になったから出会い、通り過ぎて行った人達を思い出しました。
    ルミさん、頑張ってください。
    私も頑張ろうって思います。

  2. By gopal prasad

    good

  3. By さち佳

    素晴らしいですね‼︎
    看護師という枠に囚われず、活躍されていて、また、素晴らしい方々との出逢いがあったのだと、感銘を受けました。

  4. By ピンクのこぶた

    できれば真似してみたいくらいです。私もチャレンジしたい!42歳になる看護師です
    英語はできません。なのであきらめるしかありません。95歳まで頑張るルミさんにエールを送ります。英語今からでもまにあいますかね^^

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